前回から3年ぶりとなったでんでんむしの活動でした。前日まで晴れていたのに、この日は、あいにく朝から雨模様で、結構な降りでしたが、お申込み頂いたほとんどの方が見えられて、受付をしていて、ホットしました。視聴覚室が満席となりました。
予定通り、2時より、諸注意、講師紹介から始まりました。
講師は、村上 勝彦氏 東京経済大学名誉教授で公益財団法人大倉文化財団理事長です。
「大倉喜八郎と蔵春閣」ということで、
のお話が始まりました。
大倉喜八郎の本宅は、赤坂の方にあり、向島の別邸には、週1回位通ったようです。赤坂の方では、モーレツに仕事をし、向島では趣味とかで癒しを求めたのかもしれません。健康には、非常に気を付けており、朝湯、腹八分目、お酒は少し飲むくらい、睡眠時間は7時間、「脳みそは、神棚に預ける」と言っていたようで、クヨクヨ考えず、すぐ熟睡できるようでした。
88才で息子(喜七郎)に事業の経営権を譲りますが、その後もアルプスの赤石岳にカゴと背負子に乗ってですが、登っています。健康で長生きをしています。
蔵春閣の外観は、伝統的な日本の屋根の入母屋造りで、ドーム型のような唐破風と三角形のような千鳥破風がついた日本家屋ですが、建物内は和式、様式の和洋折衷の造りとなっています。
内部の様子は前回の「蔵春閣」でご覧にな
れます。この建物内では、
外国の要人(孫文、ベルギー大使のバッソン・ピエール、フランス人の駐日大使ポール・クロテル・・・)
官界、財界人(伊藤博文、渋沢栄一、後藤新平、榎本武揚、山縣有朋・・・)
文人、芸能関係の人(幸田露伴、狂歌のメンバー、一中節のメンバー・・・)
が集ったようです。まさしく、迎賓館です。
また、近所の人々とも交流があり、向島百花園も近かったので、よくでかけたようです。
色々な人々と交流が.あったようですが、伊藤博文、渋沢栄一は尊敬する人でもあり、渋沢栄一とは50年来の親友だったようです。
伊藤博文は、1909年にハルビンで暗殺されました。ハルビンに行く前に、神戸にある大倉喜八郎の別荘に伊藤博文は泊まっています。大倉喜八郎は、翌年、ハルビンに慰霊に行き、帰国後、すぐに伊藤博文が愛用した大倉喜八郎の別荘を神戸に寄付します。それが今の大倉山公園だそうです。
渋沢栄一とは、数々の事業を一緒に起こしていますが、それだけでなく趣味の狂歌の仲間のようです。
大倉喜八郎は、1854年、18歳の時江戸に来て、中川鰹節店に奉公します。その後、1873年(明治6年)に店を構えて商いをする大倉組商会をつくります。
大倉土木組として宮城集治監、鹿鳴館の建設。
東京電灯を設立し、アーク灯を点火します。
日本で初の海外支店を置き、 海外貿易も行っています。
70代から精力的に事業を起こしています。
◎大日本麦酒
◎日本皮革(現 ニッピ)
◎帝国劇場
◎日清豆粕製造 (現 日清オイリオグループ)
◎東海紙料(現 特殊東海製紙)
その他多数
長期洋行で、海外にも目を向け、事業を起こすだけでなく、外国商人とも対抗できる人材育成のため、商業学校をつくっています。
◎大倉商業学校 (現 東京経済大学)
◎大阪大倉商業学校(現 関西大倉高校)等々
途中休憩もありましが、2時間近くのお話の中で、大倉喜八郎が、ハルビンを訪れた際、イワン・サゴヤンというパン職人に出会い、帝国ホテルに招聘し、それからイワン・サゴヤンによってメロンパンが考案されたというお話がありました。ちょっと身近に感じました。
村上先生は、もっといろいろなお話をしてくださったのですが、聞き逃したところも大分あります。もう少し、写真もうまく映せればよかったのですが、、
今後、新発田市の蔵春閣に行きましたら、実際の建物の写真を撮りたいと思っています。
新発田市に移築された蔵春閣は、4月29日に公開されます。
講演会に参加された方々には、感謝申し上げます。ありがとうございました。